長崎市及び長崎県下海外関係史料の調査

海外史料部は、その業務たる『日本関係海外史料』及び『大日本史料』第九乃至十二編編纂のための基礎的調査、ならびに、その業務の基盤をなす研究活動に必要な資料調査の一環として、国内各地の調査計画を立案し、昭和四十六年以降、随時、その実現をはかっている。本年度は、昭和五十年十月十日より同月十八日まで、長崎市竝びに長崎県下、南高来郡一帯の調査を行った。
 今回の調査の目的は、五十一年度出版予定の日本関係海外史料『オラング商館長日記』原文編之三、同『オランダ商館長日記』訳文編之三の編纂に必要な関連史料竝びに現地調査を中心に、併せて海外史料部の研究業務の骨骼をなす日欧交渉史に関する研究資料の蒐集で、金井圓(十月十日〜十月十二日)、加藤榮一(十月十三日〜十月十八日)の両名が分担して行った。
一、長崎市
 長崎市においては、長崎県立図書館(長崎市上西山町一番地、館長竹下哲氏)、長崎市立博物館(長崎市出嶋九—二二、館長越中哲也氏)を訪問、補充調査を行ったほか、市内の史蹟見学を行った。
 長崎県立図書館の概略に就いては、既に昭和四十六年度の海外史料部出張報告(『所報』第七号所収)において記したので之を省くが、同図書館においては、前回の調査を踏えて、主として日蘭貿易関係史料の調査、鎖国時代の日本人の海外知識に関する史料、特に外国地誌に関する文献を中心に、同館所蔵の史料、文献を調査した。とくに金井は、史料課書庫内を見学して安政二年和蘭条約原本、唐蛮貨物帳、亜欧語鼎(高橋景保)、その他の史料を実見して有益であった。
 市立博物館は金井俊行氏蒐集本、大正年間市史編纂のさいの収蔵品を基とし、旧長崎会所、長崎代官所所蔵史料を収め、旧幕時代の長崎の町政、長崎貿易の研究に必須の史料を収蔵している。戦後同館は同市平和公園内の国際文化会館内に置かれていたが、今回、事情があって長崎市出島九—二二の現在地に移転した。ここは元来、建物の一部が出島記念館の建物であり、狭隘な館内に郷土資料を陳列して一般に公開しているが、市立博物館収蔵史料は、まだ閲覧調査し得る状況ではなく、陳列品の見学に終った。
 なお、長崎市に於いては、日本学術振興会の招聘研究員として本所が招いたオランダ国立中央文書館第一部門公文書管理官、M・E・ファン・オプスタル博士の講演会が開かれ、金井が通訳として参加し、会後、博士を囲んで史料課長石田保氏ほか当地の研究者と情報の交換を行った。
 二、県下南高来郡の調査
 昭和五十一年度出版予定の『オランダ商館長日記』、原文編・訳文編の三は一六三七年の島原天草の乱関係の記述にその大半が充てられており、そのオランダ語原文の校訂ならびに翻訳を完成させる必要上、原城趾を含む島原半島一帯の現地調査が要請される。そのため加藤は、九州産業大学教授(現在は九州大学助教授)中村質氏の助力を得て、この地域一帯の実地踏査を行った。即ち十月十六日、十七日の両日にわたり、島原半島を海岸沿いにほゞ一周し、雲仙に至り、さらに熊本県下の天草島の実地調査を行った。この地域はいずれも島原天草の乱の主戦場であり、かつキリシタン布教の中心地であった関係上、その地理的関係や現地の状況、各地に伝存する資料を調査することは、オラング側の記録翻訳に当ってその正確を期する上で甚だ有意義であった。
 現地調査の経路は、前記中村質教授の協力を得て、島原天草の乱の発生から、島原・天草両一揆勢の合流、原城への結集と籠城、討伐軍の布陣、落城に到る一連の経過に即して、この乱に関連する地点を巡歴しながら、全体の地勢や地理的関連の確認、地名の考証、遺跡の調査を行えるよう設定された。まず、長崎市を起点に諫草市を経由して愛野町で南高来郡に入り、同町の愛野美術館(キリシタン遺物を収蔵)を見学し、瑞穂町、有明町を経て島原市に入り、島原城と城下町を実地調査し、ここから原城趾に向った。原城趾はこの戦闘の主戦場であり、城全体の遺構の調査と、攻囲軍の布陣・進路に関する調査、オランダ船の大砲設置の地点、周辺の地勢等につき可成りの時間を費して調査した。ついで、深江・布津・有家・口之津・加津佐等、十六世紀以来イエズス会の布教とポルトガル船の通交にも深い関係を持つ町村を歴訪し、千々和湾に面する小浜に到り、ここからキリシタン処刑の地として知られる雲仙に到着し、翌日、同地の見学を行ったのち、再び島原に出て、ここより天草諸島を経由して熊本県三角に到る路線を海上島原半島の地形を観察し、乱に関係する島嶼を一望した。爾後、熊本県下の本渡、大矢野島など天草諸島を経て三角に到り有明湾に沿って熊本市に到った。(金井圓・加藤榮一)

『東京大学史料編纂所報』第11号